離人症とタナトフォビア(死恐怖症)の関係について
近ごろ私は、自分の離人症にはタナトフォビア(死恐怖症)が深く関わっているのではないかと思っている。
タナトフォビアの自覚はかなりあって、悩まされてきた。離人感との関係は考えていたが、自分が思ってきたよりも強い結びつきがあるのではないかと感じるようになってきたのだ。
今回は「離人症とタナトフォビアの関係」について考えてみる。
離人症とタナトフォビアの関係

本章では、あくまで個人的な見解を記しています。
恐怖やストレスが意識を解離させる
知ってのとおり、解離性障害や離人症は恐怖や不安、トラウマやストレスから起こりえる。死への恐怖から解離や離人になってもおかしくない。
虐待や暴力、事故や病気などの直接の「死」の予感ではなくとも、イジメや情緒的ネグレクトなどの孤立も、人間という群れの動物にとっては「死」へ繋がるものだ。
そういた恐怖から神経が「死」を過剰に恐れてしまい、それを緩和したくて離人感を起こし意識をボカしているかもしれない。死にたくはないけど、死んだフリを選んでいるみたいな。
「生」からの遠さという共通点
現代は、昔ほど「生」も「死」も身近ではない。
昔は共同体感覚が強く、ご近所とくんずほぐれつ生き、人の怪我や病気、死に触れる機会はもっとあっただろう。現代はもっと「個」で生きてていいし、人間をはじめとする生き物の死もそこまで多くは直面しないし、いわゆる”人間関係が希薄”というやつだ。
だから昔は死に対してもっと「腑の落ちどころ」があったはずだ。宗教も身近だったし。現代人のほうが死に「未知」を感じてタナトフォビアになりやすい可能性がある。
そしてもしかしたら、離人症も「日常でいきいきとした感覚が味わいにくくなった」ことが一因になっているかもしれない。もちろん戦時下などもPTSDだらけだっただろうが、現代は「昔とは別の意味での解離のなりやすさ」を生み出しているかもしれない。
離人症による断絶感
やっかいなのが、これである。離人症による世界との断絶感、孤独感。私は常々、離人症には「二重の孤独」があると言っている。それは「現実感喪失による孤独」と「理解してもらえない孤独」だ。
人と社会と世界と繋がっている感じがしない。まさに生きながらに死んでいる。幽霊みたい。
もっとちゃんと繋がって、仲間がいて、人々の肌を、大地の息吹を感じられていれば、共同体感覚があれば、安心できて、「死」をここまで心配しないかもしれない。
離人感とは、安心の欠如だ。
私はなぜタナトフォビアなのか

死は誰でも怖い。でも、じゃあなんで私個人はタナトフォビアになったのか。何かきっかけがあるのか。正解かはわからないが、考えられる可能性を書いていく。
そういう性格だから
神経がもともと恐がりという可能性はある。あるいは、ストレスでトラウマで脳の一部が委縮しちゃったりして、そういう神経になっちゃったか。
ここまで強い慢性離人症になってしまうと、もはや、何が私の本来の気質だったか、性格だったか、もうわからない。
あと、「力を抜くと死んでしまう気がする」という変わった強迫観念的なものはある。それについてはこちらの記事↓で解説している。

死に対する嫌な思い出があるから
ここでは書かないけど、「死」にまつわる、ややトラウマ化している悲しい思い出が複数ある。全て、目の前で「死」が起こった出来事だ。
それらを引きずってタナトフォビアになっている可能性はかなり高い。
私がそれらを乗り越えることができれば、何かが変わるかもしれない。
人との関わりが極端に少ないから
これはだめですねー、タナトフォビアやってて、人と全然関わってないってんじゃ、「まずそこを変えなさい」となる点ですね。先述したように、共同体感覚は大事だ。
繋がり感が失われていることで恐れを感じやすいことがタナトフォビアの原因になってるかもだし、かつ、人と関わらないからタナトフォビアから帰ってこれなくもなっている可能性。
大体、困り事というのはこういうふうに両ベクトルになっているものだ。
まとめ:私は救われたい

私はタナトフォビアに向き合う必要性を感じている。これまで目を背けてきたけれど、そろそろどうにかしないと、メンタルが良くならない。
私はとにかく、救われたい。存在を。この、人生全体に対する漠然とした罪の意識を。そして、死を。
続きの記事として、以下にタナトフォビアの改善法と関連本の紹介をしています。

私はできればタナトフォビアじゃなくなりたい。離人症を治すためにも。今後も、怖いながらもタナトフォビアに向き合っていきたいと思います。