離人症は「天才」でも「悟り」でも「スピリチュアル」でもない件

なぜ「天才」「悟り」「スピリチュアル」が検索されるのか?
離人症を検索すると「天才」「悟り」「スピリチュアル」という関連キーワードが出てくる。これは、こうした言葉で検索する人が多いことを意味している。
なぜか。おそらく次のような誤解からであろう。
- 「天才」=人並外れた能力 → “人”を“離”れる → 離人
- 「悟り」「スピリチュアル」=人知を超えた境地 → “意識の変化”が離人症に似ている?
しかし、それは単純な誤用と誤解である。それ以上でも以下でもない。結論としては、「紛らわしいので混同しないでください」というほかない。
離人症は天才や悟りと真逆である
私は普段離人症に対してあんまり何かを断言することはないが、とはいえ「離人症は天才や悟りとは真逆の状態だ」とは思っている。
離人の状態は次の通りである。
- 頭がごちゃごちゃしている
- 視界や感覚がフラフラしている
- 整っていない。混乱している
- 静けさがあるようで、実はない
頭は働かないし、クリアではない。「悟り」や「冴えわたる頭脳」とは対極にある。
以前、離人症の交流会に某・高IQ団体の方が参加したことがあった。
そのとき、フォロワーさんが「離人症になったらIQ下がりますよ」と発言したのが印象的である。ほんと、的を射ている。
離人症は客観的なのか?
「離人症は客観的だ」と思う人もいるだろう。しかし、これは誤解である。
離人症はイメージほど客観的ではないのだ。
たしかに、自分の体を外から見ているような感覚がある場合は「客観的」に見える。
だが、それはあくまで物理的な視点の話である。内面の客観性はほぼ壊滅的といっていい。
頭の中はボヤボヤしており、思考の整理はできていない。冷静さとは程遠い。むしろ、「悪い意味で客観的(自分が他人事に感じる)」だけで、「良い意味で客観的(冷静で論理的)」ではない。

さらに踏み込むと、主観性も弱っている。意思や自主性、選択能力がボヤけ、感情も鈍い。
主観的にも客観的にもなりきれない中途半端な状態である。感じられるのは「違和感」と「不快感」の二つくらいだ。そのくせ、「感傷的」になることもできない。苦しいが、感情に浸ることも発散することもできない。非常にやっかいである。
離人症について考えることは回復を遠ざける?
海外のブログや動画では、「離人症について考えることは回復を遠ざける」とよく言われている。一理あるだろう。
しかし、私は離人症について全く知らなかった時期も、知ってから特に調べなかった時期も、ずっと離人感はあった。なので一概には言えない。
ただ、離人症を意識せずに生活できるメンタルを目指したいとは思っている。ネットからも少し離れるほうが良いだろう。ほんとはね。
離人症は楽しいのか?
私は仲間が少ない孤独感からXで「離人症」「離人感」と検索することがある。すると、「楽しかった」「またなりたい」という人を意外と見かける。
これは、離人症がストレスから自分を切り離し、一時的にフワッとさせるから楽になるんだろう。その体験を「楽しかった」と振り返る人がいても不思議ではない。
しかし、慢性化すれば話は別だ。苦しい状態が延々と続く。個人的には全然「楽しい」どころではない。
メディアでの解離の描かれ方
離人症は解離性障害の一種とされる。解離といえば、ドラマや映画でよく題材にされる「解離性同一性障害(俗にいう多重人格)」が有名だ。
しかし、ドラマにおける解離は視聴者の願望を満たす方向で描かれる。「都合いいタイミングでクールな別人格に変身して、都合いい部分だけ忘れたりしてる」など、現実とは違う演出が入る。
もしそのうち離人症が「エモい題材」としてコンテンツに使われたら、当事者としてはモヤモヤするだろう。ただ、そのことで認知が広がるなら一概に悪いことばかりでもない。正しく広がってほしい。
まとめ
今回の記事で言いたいのは以下のことである。
- 離人症は「天才」「悟り」「スピリチュアル」とは関係ない(と私は思ってるよ)
- むしろ頭は混乱し、視界はフワフワして冷静さもない
- 客観性も主観性もうまく働かず、残るのは「違和感」と「不快感」だけ
離人症というものがちょっと誤解されていることを知ってもらえたら幸いである。
